オーストラリア人彼女との国際恋愛ブログ、ときどき英会話

オーストラリア人彼女との国際恋愛と英会話についてのブログです。

【vol.40】浴槽につかって深呼吸したら人生において何が大事なことか悟った件。

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皆さん、こんにちは。ワーキングホリデーでオーストラリアのパースに滞在している、最近まで猫アレルギーが半端無かったHideです。彼女の家のハウスキーピングをしてたら大変なことになりました。

 

さて、先程申し上げました通り、最近まで彼女の家に泊まってました。それでですね、彼女の家には、なんと浴槽があるんですね。お湯はってドボンとつかれるヤツ。

 

実は前々から気になっていて、彼女に聞いてみたんですよ、「今日これ使ってもいい?」って。そしたら「もちろんOK」なんて言ってくれるもんですから、悦んでお湯はって、つかる前に念入りに髪の毛洗ったり大事なところ洗ったりして、それはもう心を弾ませながら入浴した訳です。なんせ一年半ぶりの入浴、それはさぞかし気持ちよくて、身体の毛穴という毛穴から色んな毒素が一気に噴き出して、上がる頃にはそれはもう真っ白で文字通り無垢な肌に生まれ変わるんだろうなとすっげぇウキウキしながら一気に浴槽に飛び込むと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トレッビアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!!!!!!

 

な感じでしたもう本当に気持ちよ過ぎて感動し過ぎて絶叫しちゃって彼女が「どうしたの!?」と飛び込んできて全裸で3/4泣きくらいになりながら思わず日本語で「気持ちぃよぉ…」って言っちゃうくらいに最高でした。

 

あへあへのトロトロになって、まるでここはheavenではないかという心地よさに包まれながらも、実は心のどこかで何か違和感がありました。何かこう、この幸せな時間を手放しで悦べない、いや、喜んではいけない違和感。

 

そう、これって、日本で当たり前に経験していたことなんですよね。でも俺が言いたいのは、当たり前のことを当たり前と思わずに感謝して生きていこうぜって話ではなくてですね、俺の中の当たり前の基準がいつの間にか下がっていたことに対して危機感を感じたということなんですよ。

 

時系列的に言うとこんな感じ。

 

● 日本にいた時:あぁ〜風呂気持ち良いんじゃあ〜^^ →風呂への基準値100

 

● 日本出てしばらく(フィリピンあたり):風呂が恋しいのぅ…まぁこっちではシャワーが当たり前やしのぉ…しゃあないわ。→風呂への基準値70

 

● 日本出て大分経ってから(ファームからパースの初期くらい):今お風呂入れたらどんだけ気持ちいいだろう…お風呂…お風呂…→風呂への基準値40

 

● ちょっと前まで:いやいやオーストラリアはシャワーだから。シャワーでも十分気持ちいいから。 →風呂への基準値0

 

● 今:風呂サイコオオオオオオオオォォォォォォオオオオオ!→風呂MAX

 

ってな感じです。たかが風呂かもしれません。けれども、日本人として根付いてきた「風呂」という文化に対する基準ですら、気付いたら「いや、シャワーでもいいやん」ってレベルで風呂への基準値が下がっているのです。本当はお風呂大好きなのに。ていうか風呂に入るという言葉がシャワーを浴びるという行為を自然に意味するくらいに、俺の風呂への意識の汚染は進んでいました。

 

ということは何が起こるかというと、気付かないうちにあらゆることへの基準や期待というものがズルズルと下がっちゃってる可能性があるということです。生活水準や健康水準、さらには自分の夢までもが、です。

 

かつてはそれはそれは高いところにありそれを掴むために必死で足掻いていたのに、それを手にすることができていない自分を慰めるために、それは俺には大きすぎるからもっと小さく…とかそういうことを繰り替えしてるうちにいつしかそれ自体が消滅し、消滅した後も、いや、別にあれは今から思うとどうでもよかったとか、何か違うんだよねとかそういう風に自分をごまかし続け、夢を見ることすらできなくなります。

 

風呂に例えると、かつて日本では毎日のように風呂に入ってたのに、海外に来て風呂に入ることができなくなった自分を慰めるために、オーストラリアには風呂ないからシャワーしかないわ…とかそういうことを繰り返しているうちに、風呂に入りたいという欲求自体が消えていき、いや、シャワーでも全然いいし、とか、そもそもシェアハウスの風呂汚いしとか自分をごまかし続け、風呂に入るという概念自体が消滅します。

 

俺が言いたいことは、でっかい夢見てそれを追いかける人生にしていこう!とかそういうことじゃなくて、人の世を生きている内に忘れてしまった、本当の「なりたい自分」「歩みたい人生」というのをもう一度がんばって発見しませんか?ということです。多分それって、俺にとってのお風呂入りたいという欲求と同じように、いつのまにか自分の中から消え去ってしまったものなんだと思います。

 

俺のこの海外生活も、歩みたい人生の一つ。そして、まだ思い出していないだけで、俺が本当に歩みたい人生という存在に気付く時が来るでしょう。その為に、自分の内側や外側、あらゆる方向に耳を傾け、素直な心を持ち続けたいと、彼女の実家の浴槽につかって足の裏の角質をめくりながら考えていました。僕は水虫ではありません。

 

それでは今回も読んで頂き、ありがとうございました。